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ワタシは子供の頃、足が悪くて何度か入院した。毎回長期の入院になった。
入院してないときは定期的に病院に通った。再発してるかどうかをチェックするためだった。
再発が確認されると、次の入院時期の相談になった。
そのたびにお医者さんも家族もため息をついた。
入院が決まると母は私を買い物に連れて行った。まずデパートに行き、いつもなら絶対買ってくれないような値段の高い可愛いパジャマを買ってくれた。それからワタシが大好きだったイノブン(京都の雑貨屋さん)に行き、どれでもスキなお皿を選びなさい、買ってあげる、ただし割れないようなプラスチックの、と言った。
ワタシは迷いに迷って、真っ赤の無地のお皿を選んだ。
「これでいいの?柄が入ってなくていいの?」
と母は念を押した。でもワタシはそのシンプルなお皿が気に入った。
ところで、このお皿は何のためなのか。
「入院したら朝ご飯を作ってあげるから、それを入れるの。」と母は言った。
今は違うのだろうか。その頃私が入院していた総合病院の考え方として、給食の予算の6割は胃腸など、食物に気を遣わなくてはならない患者さんの給食にあてられた。次が高齢者、咀嚼に問題がある患者さん、幼児、その他内臓疾患の患者さん、外来食堂、の順。
何でも食べていい外科病棟のみなさんは安くて面倒くさくないもので食べといて、お願い、という空気がありありと見て取れた。段取り上もおかゆなどは温度が大切で作るタイミングが重要なので、まずはどうでもいい外科病棟の給食から作り始める。
晩ご飯なんか午後三時にはもう病棟内のワゴンに置かれていた。それを午後六時に配るのだ。お汁も煮物もご飯もすべて冷え切っている。麺類はのびきっている。それを冷たいまま食べた。小さな炊事室が病棟にあって、そこのガスコンロが3分でいくらかお金がかかるのだが、歩ける人でそのお金を惜しまない人は小鍋に移してそこで温め直して食べていた。レンジとかはその頃はなかった。朝食は前日に作っておいた目玉焼き、前日からワゴンに入っていてぬるい牛乳と溶けて形が崩れたマーガリン、そしてパン、だった。
事故って入院してきたある若者は閉口して「食事がひでー!早く治して娑婆に戻りてー!」と切実に話していた。
婦長さんは
「そうそう、ここのご飯にはそういう効果もあるのよ。治りたくなるもんね、これじゃ。」
と笑っていた。
母はワタシが冷えた食事をしなければいけないことをとても悲しがっていた。一日にせめて一食はできたてのものを食べさせてやりたいと言っていた。(ワタシは実はそれほど気にしてなかった。子供ってそんなもんだよね。)
そこで、母はワタシが入院している間、自分も付き添いで泊まり、朝食を作ってくれた。その後家に戻り家事をし、夕食を片付けるとまた病院に戻って来て寝た。
大変な苦労だったと思う。
そして朝ご飯に作ってくれたのがチキンソテー。
鶏肉に塩胡椒し、フライパンで両面をかりっと焼いて、水を加え、ふたをして蒸し煮する。よく火が通ったら千切りキャベツの横に置き、フライパンの肉汁を回しかけ、櫛形レモンを添える。
真っ赤なお皿にレモンの黄色、キャベツの淡い黄緑、そしてきつね色のお肉。とても美しい彩りだった。このお皿にしてよかった、と思った。
チキンソテーはワタシの大好物だったが、うちの経済状態からすると普段はなかなか食べられないスペシャル献立だった。
チキンソテーを作った夜は母はフライパンを洗わなかった。鳥の脂が残ったそのフライパンで翌日目玉焼きか炒飯を作った。鶏肉フレーバーの「スペシャル目玉焼き」「スペシャル炒飯」は美味しかった!二回もスペシャルが楽しめて超豪華気分だった。
そのチキンソテーを母は病院で毎日作ってくれた。ワタシも毎日食べても飽きなかった。
毎日朝からスペシャル!入院も悪くないぞ。
チキンソテーを食べてる間は、自分がガラス窓から同じ角度で空をずっと見つめていなければいけない、立って歩くこともできない、普通の子供なら体験しなくてもいい闘病生活を送っている子供だという事実から離脱することができた。
母は一口も自分では食べなかった。
一ヶ月半くらいそんな朝食が続いただろうか。
大きくなり、嗜好も変わり、チキンソテーよりもっと好きな食べ物とかもできて、それはもうスペシャルなものではなくなった。母もあまり作らなくなった。大人になり、ワタシは家で食事しなくなり、そのうちひとり暮らしを始めた。赤いお皿を持ってね。
ある日ひとりでチキンソテーを作ってみた。思ったより簡単なもんだな。うまく焼けた。赤いお皿にのっけた。でも一口食べた途端、入院生活のさまざまな想い出がうわーってよみがえってきて泣いてしまった。
それ以来チキンソテーは二度と作らなかった。お皿も捨てた。
再開したのはわりと最近だ。
鶏もも肉が冷蔵庫にあって、いつもなら照り焼きかトマトソースがけにするところだけど、なんだか、ふとチキンソテーを作ってみようかと思った。
初めて食べたコドモたちが「おいしい!」と、とても喜んだ。
「これスキ!また作って!」
ワタシも今回は食べても泣かなかった。
コドモたちが喜んでくれたうれしさの方が大きかった。病院生活の辛い思い出より母に対する感謝の記憶の方が強くなっていた。
もうお皿は赤じゃないけど、でも彩りはホントにきれい。
そしてもちろんフライパンは洗わないで、次の日の朝には「スペシャル目玉焼き」を作るの。これがまた楽しみなの!
ジャスミンのむせるほどの甘い香り、ご存じの方もいらっしゃるかも。
定家葛はそれに比べると、ややおとなしい、控えめな甘さです。花の色は咲き始めは白、日がたつにつれ,レモンから山吹色くらいまで色がゆっくり濃くなります。最後は茶色になり枯れます。それにつれ、香も濃くなり、ある日ふっと消えます。こういう変化も毎日感じられ、楽しいのです。
定家葛は紅葉し散ります。秋には多量に。しかし年を越す葉もあります。そして、秋以外にも常時ちらほら紅葉し、散ります。
写真にも紅くなったり黄色くなったりした葉が映ってます。(写真が下手くそでゴメン)
ですから、花が咲く今時分は、白、黄色、山吹の花に新緑の緑、濃い緑、紅の葉。本当にあでやか。
どんな葉が紅葉するんだろう。
長年眺めてますが,規則性はないようです。何年過ぎても紅葉しない葉もあれば、葉っぱとして生まれてたての若葉マークちゃんがあっというまに散ることも。
プロセスもさまざま。じわじわと黄色、オレンジ、緋色、茶色、と色を変え、フィナーレを迎える葉もあれば、ある日突然しおれて茶色になる葉もあります。元気いっぱいに真っ赤っかになり、あっという間に散ってゆく短命な葉もあります。
長生きも夭逝も,誰が決めることやら、わからないけれど、葉っぱは自分の命を誠実に生きている。太陽の光を浴びることを渾身に願いながら。
さまざまな葉っぱのライフスタイルをつい人の世になぞらえてしまう。自分はどのパターンで生きているのだろう,などと考えてしまう。
定家葛は毒草だとか、花言葉は「依存」だとか、アマノウズメが素っ裸で天の岩戸の前でダンスしたとき身につけてたのはこの花だとか、いらん知識をこのブログ書く前にネットで仕入れてしまいました。そんな側面もあるのね。
この花が大好きなの。この花の隣にベンチを置き、香に包まれながら紅茶を飲んだり、ワインを飲んだりするのにちょうどいい季節がまた訪れました。そのことに感謝したいです。