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新年雑感
みなさま
旧年中はホントにお世話になりました。
そして。
どうか、今年もよろしくお願いいたします。
今、静かな気持ちで、去年一年を少しふり返ってみますね。
その前の年から始めていた新しいアルバムのための曲書きの続きと、「BATON」に収録する楽曲の選定から一月はスタートしました。
新しいアルバムは今までとは違った形になる予感がありました。だんだん作品にその方向性が見えてきて、ほとばしり感に突き動かされていくように、もっと高く、もっと深い曲!!と思いながら書いてゆきました。菅原プロデューサーのアレンジも、今までにないような新しい形にあがっていて、本当に一歩一歩、ワタシ達チャレンジをしているんだ、と気合いが入る思いでした。
それと併行して前年の様々な30周年記念スペシャルライブ音源を聴き直して、ライブ盤用収録曲の選曲とか曲順とか、それこそ毎日毎日、ああでもない、こうでもない、と曲順を変えては聴き、選曲を変えては聴き、を一ヶ月以上繰り返しました。もうこれ以上ベストな選曲と、曲順はない!と言いきれるまで。
それを素晴らしいミックスで形にしてくれた松本大英君に感謝します。長きにわたって、ワタシの音楽を創る上でなくてはならない同志でした。そして、これが彼のエンジニアとしての最後の作品となりました。今、彼はぶどう農家として、次のページで新たなチャレンジをしています。
このミックスの翌日から、ひょんなきっかけで、生まれて初めて奄美を旅しました。初めての場所なのに、何か初めてとは思えない、不思議な懐かしさを感じる島でした。ここで出会った方々に感謝したいと思います。
帰ったらレコーディングが始まりました。いつも感じるのですが、スタジオはワタシのココロの故郷です。思えばデビュー以来ずっと、素晴らしいミュージシャン達とがっつり音楽に向き合う、というラッキーにワタシはいつもいつも恵まれてきました。そのことをここで感謝します。
今回、初参加のエンジニア、樫本大輔君が、すごく頑張ってくれました。そして、今回もタグを組んでくれた共同プロデューサー、菅原弘明氏、参加してくれた全てのミュージシャンとエンジニアにもう一度お礼を言いたいです。彼らのおかげで、31年目の次のページに行けた。
ジャケット写真の撮影は、こんなに楽しくていいの?ってくらい楽しかった。ビジュアル制作担当のみんな、ありがとう!そして、それら全てを可能にしたチーム種ともこのみんな、ありがとう!
そのあとは「BATON」リリースに向け最終的文字校正。エッセイはだいぶ前から書きはじめていたのですが、やっぱりいろいろ修正したくなったり。また、三十年活動してると思いの外いろんなことがあって、記憶違いやら忘却してたりで、年譜とインタビューの校正がけっこうたいへんでした。一部のファンの方々に大きく助けていただきました。ありがとうございます。
校正に地獄の粘りと執念を見せてくれたスタッフ高岡氏と、この本をとても素晴らしいものにしてくれた外間隆史氏に感謝します。細部に神が宿る、とはこういうことか。感動しました。最初の打ち合わせの時には、まさかこんな分厚い大作になるとは予想もしてませんでした。
夏は恩師、河合マイケルさんと初のガチンコ対決ライブ、そしてそのあと、「種からつなげよう」で出会った人たちを再訪するために東北を旅しました(ブログにも書かせていただきました)。この旅からも多くをココロにいただきました。この旅で出会った全ての方々にもう一度感謝します。
秋からはここまではツアー、リリース、そしてそれに向けてのプロモーション。
アルバムを手にとっていただいた方々にお礼を言わせてください。ありがとうございます。気に入っていただけたでしょうか?だといいな。
それから、バンドツアーにお越しいただいた皆様、ありがとうございます。バンドはすごく進化してきていると思ってます。けど、大阪はトラブルでスタートが大幅に遅れ、ホントに申し訳なかったです!ごめんなさい。
去年の新年雑感で目標としたことは実現できたんじゃないかなと思います。
アルバムを最高の形にすることと、美味しい料理を作ること。どっちも達成できたと思ってる。去年はぬか漬け研究の年でもありました。
そして。去年はもう一つ、ピアノ、ギターの個人練習を頑張りました(自社比)。まだまだ技術が及ばないところは山ほどあるのですが、少しずつ、これらの成果を今年の、これからの弾き語りツアーに活かせていければ、と思ってるところです。楽器ってホントに奥が深い。
ワタシにとって今年はどんな年になるのかな。
どきどきわくわくなのです。いろんなことが変化していく一年になると思います。
さらに新しいことにチャレンジしていきたいと思っています。人生いつも一年生だから。
今年はあえて目標を設定しません。ココロのむく方へ歩いて行く。そういう年なんだという予感があります。
みなさまにとって今年はどんな年になるのかな。
人生色々だけど、できるだけたくさん笑顔がある年になるといいな。ココロよりそう祈っております。
そして、みなさまのココロのど真ん中にワタシの音楽が伝わりますように!
今年もどうかよろしくお願いいたします。
種ともこの日々、ツイッターやFBなどでご覧になっていただければ幸いです。
写真は千両。豪華な花束でなくても、こうやって食卓にただ飾るだけで、新たな年って気持ちになります。
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やや遅いですが、あけましておめでとうございます。
昨年はお世話になりました。
今年もどうかよろしくお願いします。
ブログ、全然書いてなくて、30周年記念アルバム”Daily Bread”の告知すらもしてなくて。多忙を言い訳にしちゃいけませんが。
去年は30周年アニバーサリーイヤーで、あれこれといろんな企画をしました。2枚組を2作リリースしました。スペシャルライブもいくつかしました。弾き語りツアーも相変わらず全国駆け回り、バンドライブでは踊りまくりました。スペシャルサイトを立ち上げ、ロングインタビューを掲載しました〔現在も続行中)。昔出版した書籍の電子書籍化もしました。トークショー&種ともこグッズ展覧会も何度かやりました。
文字通りダッシュで駆け抜けた一年でした。
慌ただしくもあり、喜びも多い一年でした。
30周年アニバーサリーを共に体験してくれたすべての方々に感謝します。
ポカの多いワタシですから、あれこれ取りこぼしつつ、スタッフのみんなにこぼれ球拾ってもらいながら駆けてきました。チーム種のスタッフのみんなにここで今一度感謝したいと思います。
ビジュアル関係を引き受けてくれた外間氏、サウンド面のプロデュースをお願いした菅原氏にも、何度かハードな日々を送らせてしまいました。この場を借りて感謝したいと思います。
去年一年を駆け足で振り返ってみます。
その前年の秋に父が死に、さまざまな事務的な処理から一年が始まりました。父が死んだことで多くのことが変化しました。実家を取り壊すことになり、そこにあったアップライトピアノをうちに引き取りました。長い長い間、手元に置きたかったピアノ。それがついに我が家にやってきました。
また、実家を整理したら両親がワタシの過去資料〔ラジオ出演の収録されたカセットテープ、ポスター、雑誌のインタビュー記事の切り抜き等)をたくさん保管しておいてくれたことも判明しました。これらがあったからこそトークショーが可能になりました。ワタシ、なんでも捨てちゃうからね。
悲しいこともありました。
年初からリスペクトするミュージシャンが幾人か亡くなりました。
デビッド・ボウイ、キース・エマーソン、、プリンス、ジョージ・マイケル、レオン・ラッセル、富田勲、、、、(敬略称)。みな、ワタシの音楽の形成に力を貸してくれた方々です。
友人だった吉川みきちゃんが亡くなりました。村田和人さんを追うように。お見舞いに行って少ししてからでした。お葬式は彼女のお誕生日でした。
同じくデビュー30周年だった盟友、吉良知彦くんが亡くなりました。彼が死んだことはワタシの心にとても大きなくさびを打ち込みました。ある意味、お互い少し似ていると感じていました。彼にはたまーに弱音を吐いたり、そんな話したっけと強がったりしました。大切なライバルを失ってしまったと感じました。亡くなったと聞いた次の日、ライブに向かう新幹線のなかで断続的に泣いていたこと、そのライブで「遠い音楽」を必死の思いで泣かずに歌ったこと、忘れられません。
心に岐路を感じた年でもありました。
自分はどんなふうに生きていくのか?
生きている間に何をしなくてはいけないのか?
自分にとって本当に大切なものはなんなのか?
自分が差し出せるものはなんなのか?
で、自分の葬儀費用の頭金を払いました。エンディングノートを書きました。
そのうえで、それはもう必死で曲を書きました。いつ死んでも後悔しないように。今の想いを歌わずにいられなかった。曲を書くことでしか自分のココロを保てなかった。30年のその先へ。次のページを自分は開いていました。あと何ページあるのか分からないけど、次のページを。
その次のページにどんな風景が見えるのか。眺めたかった。
今、うっすらと浮かび上がろうとするその風景に全力で色づけ作業を始めようとしているところです。
コドモたちも大きくなり、ひとり暮らしを初めた娘は一気にオトナになり、高校生の息子は手探りで未来を探しています。巣立ちはもうすぐ。彼らも次のページを開きつつあるのです。
実は、ですね。30周年アニバーサリーイヤーは終わりましたが、企画したことすべてを遂行することができませんでした。おもにワタシの段取りの悪さです。
なんで、今年も30周年企画、続行します!時空が歪みますが、今年も30周年アニバーサリーなのです。あれこれと準備しつつあります。
そして、次のページの先にある新しいアルバム。これも必ずリリースします。
楽しみにしててね。
少しゆっくりしたら、という意見もスタッフから出ました。でも、今は走れるうちに走りたいの。
いつも元旦におせち食べるとき、家族で今年の抱負を話すことにしています。
ワタシの今年の抱負は二つ。
1)新しいアルバムを最高のものにする
2)美味しい料理を作る
1)は、プロですから当然と言えば当然。でも、今回いろんなチャレンジがあるの。それがとても新鮮で、どきどきなの。
2)は去年の反省。仕事がたてこんでくると「悪い、コンビニでカップラーメン買ってきて!」が時々ありました。それはいかん、やはり。家族で食卓囲むのもそんなにもう長いことではないかもしれません。丁寧な仕事するにも丁寧に作ったご飯は大事なはず。
忘れるのが大得意のワタシ。でも、ここに書いておけば大丈夫。
ブログ、なかなか更新できませんがツイッター、FB、KBページは更新しています。もしよければそちらにもお越しください。もちろんHPのインフォにも情報は随時アップしています。
写真はいつものお雑煮。お餅、蒲鉾、鶏肉、芹、飾り人参、柚子。
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明日から新しい年です。
今年はホントにいろんなことがあって、いろんな発見があった年でした。ちょっとふり返ってみます。
年明けは息子の高校受験がメインテーマでした。結果オーライでしたが悩みに悩んで、何度も話し合いをしました。春からコドモたちみな新しい環境で学び初め、新鮮なスタートでした。
年明け、同時に始まったワタシの曲書きはスロースタートでした。プロデューサー菅原氏からの状況確認メールが焦りを帯びてきてから、突然アクセルペダル全開モードになった記憶があります。
こちらは仕事遅いのに,菅原氏は驚くほどのスピードで、ばしばしプリプロをを上げてきて、それを聴いてると「今回かなりいい」と手応えを感じるようになりました。それがまた曲書きのアクセルを踏む力となりました。菅原氏の素晴らしい仕事にここで再び感謝します。
レコーディングもバンドメンバーがすごくいい演奏をしてくれて、楽しくてあっという間で。創る喜びで幸せでした。このレコーディングに関わってくれた全ての方に今一度感謝します。みんなで建てた金字塔でした。
その直後のミニツアーで,生まれて初めて自分の体調不良でコンサート中止という事態になり、みなさまに御迷惑かけました。ホントにごめんなさい。
夏はリハビリでした。これが予定通り進まず、自分をコントロールするために始めたクラシックピアノの練習に、すごくはまりました。自分の技術の不足している点がクリアに見えました。先生についてレッスンを受けることを初め、ボイストレーニングも受けて、基礎の見直しをしました。
プロの野球選手がフォームの見直しをするように。更新の時期でした。
これらの成果が少しずつ上がって喜んでいた時、突然父があっけなく亡くなりました。一緒に飲む日まで決めていたのに。あれこれ済ませてすぐツアーが始まりました。
ツアーでは基礎の見直しを実戦で応用することに挑戦しつつ、各地で新譜のフィードバックをお客さんからもらって、それが元気の素となりました。どんどん気持ちのスピード感上げていく感じで各地で歌えました。
続くバンドツアーでは、ホントに日本一のバンドだと感じました。素晴らしいメンバーと共に音を紡ぐことができた。金字塔のてっぺんに星を飾ることができたと思いました。聴いてるお客さんの笑顔がその星でした。ライブに来てくださった全ての方に感謝します。そして、それを可能にしてくれたスタッフのみんなにも感謝します。
私的なことでは、弾き語りツアーが終わってすぐ四十九日でした。人は死ぬことで何かを更新するのだということを発見しました。自分が生きているという事実を大切にしなきゃ、とも思いました。
恋愛三部作は終わり、来年は30周年記念イヤーです。
今年は始まりと終わりと更新に満ちた年でした。つまり、豊かな一年でした。大切な、よき一年でした。
今年もお世話になりました。来年もめちゃよろしくお願いします。喪中なので新年のご挨拶はいたしませんが、来年もみなさまにとってよき一年でありますように。
そして、来年もワタシの歌がみなさまのココロの真ん中に届きますように。
今年もどうか、よろしくお願いします。
唐突なお雑煮のアップ、失礼します。
一椀のお雑煮もココロをこめて作ると必ず魔法が生まれる。
そんな気がします。
だから、精いっぱい集中して作ります。
丁寧にお出汁をひいて。
芹と飾り切りした人参と柚子の皮。きちんと作ると色合いも美しくなる気がします。
(来年は京人参で作ろうっと)
計算してお出汁を作っても、最後の最後でお餅を入れるとまた味が変わります。
その変化の具合も毎年違って驚くのです。
毎年、そんな驚きを持てる幸せに深く感謝しつつ。あと何回そんな幸せを持てるんだろうと想いを巡らせつつ。
そんなふうに、吟味して、怠らず、でもハプニングも楽しみつつ、まっすぐに前を向いて、今年も音楽を創っていきたいです。
どうか今年もあなたのココロにワタシの歌が届きますように。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
みなさまにとってよい一年でありますように。
笑顔の数がたくさんありますように。
くちびるに歌がありますように。
みなさまのココロの真ん中にワタシの歌が届きますように。
昨年はアルバムを届け、ライブしに街から街へ移動し、多くの方々と一期一会がありました。
そのことにお礼が言いたいです。
ありがとうございました。
今年、またその原点である曲作りから一年がスタートします。
自分のココロの中をのぞき、水の揺れる流れに浸り、空を見上げ、遠くにあるココロを想う。
そうやって曲をこしらえていこうと思います。
今年一年、また多くの出会いがありますように。
みなさまと笑顔を共有できますように。
種ともこ
ワタシは子供の頃、足が悪くて何度か入院した。毎回長期の入院になった。
入院してないときは定期的に病院に通った。再発してるかどうかをチェックするためだった。
再発が確認されると、次の入院時期の相談になった。
そのたびにお医者さんも家族もため息をついた。
入院が決まると母は私を買い物に連れて行った。まずデパートに行き、いつもなら絶対買ってくれないような値段の高い可愛いパジャマを買ってくれた。それからワタシが大好きだったイノブン(京都の雑貨屋さん)に行き、どれでもスキなお皿を選びなさい、買ってあげる、ただし割れないようなプラスチックの、と言った。
ワタシは迷いに迷って、真っ赤の無地のお皿を選んだ。
「これでいいの?柄が入ってなくていいの?」
と母は念を押した。でもワタシはそのシンプルなお皿が気に入った。
ところで、このお皿は何のためなのか。
「入院したら朝ご飯を作ってあげるから、それを入れるの。」と母は言った。
今は違うのだろうか。その頃私が入院していた総合病院の考え方として、給食の予算の6割は胃腸など、食物に気を遣わなくてはならない患者さんの給食にあてられた。次が高齢者、咀嚼に問題がある患者さん、幼児、その他内臓疾患の患者さん、外来食堂、の順。
何でも食べていい外科病棟のみなさんは安くて面倒くさくないもので食べといて、お願い、という空気がありありと見て取れた。段取り上もおかゆなどは温度が大切で作るタイミングが重要なので、まずはどうでもいい外科病棟の給食から作り始める。
晩ご飯なんか午後三時にはもう病棟内のワゴンに置かれていた。それを午後六時に配るのだ。お汁も煮物もご飯もすべて冷え切っている。麺類はのびきっている。それを冷たいまま食べた。小さな炊事室が病棟にあって、そこのガスコンロが3分でいくらかお金がかかるのだが、歩ける人でそのお金を惜しまない人は小鍋に移してそこで温め直して食べていた。レンジとかはその頃はなかった。朝食は前日に作っておいた目玉焼き、前日からワゴンに入っていてぬるい牛乳と溶けて形が崩れたマーガリン、そしてパン、だった。
事故って入院してきたある若者は閉口して「食事がひでー!早く治して娑婆に戻りてー!」と切実に話していた。
婦長さんは
「そうそう、ここのご飯にはそういう効果もあるのよ。治りたくなるもんね、これじゃ。」
と笑っていた。
母はワタシが冷えた食事をしなければいけないことをとても悲しがっていた。一日にせめて一食はできたてのものを食べさせてやりたいと言っていた。(ワタシは実はそれほど気にしてなかった。子供ってそんなもんだよね。)
そこで、母はワタシが入院している間、自分も付き添いで泊まり、朝食を作ってくれた。その後家に戻り家事をし、夕食を片付けるとまた病院に戻って来て寝た。
大変な苦労だったと思う。
そして朝ご飯に作ってくれたのがチキンソテー。
鶏肉に塩胡椒し、フライパンで両面をかりっと焼いて、水を加え、ふたをして蒸し煮する。よく火が通ったら千切りキャベツの横に置き、フライパンの肉汁を回しかけ、櫛形レモンを添える。
真っ赤なお皿にレモンの黄色、キャベツの淡い黄緑、そしてきつね色のお肉。とても美しい彩りだった。このお皿にしてよかった、と思った。
チキンソテーはワタシの大好物だったが、うちの経済状態からすると普段はなかなか食べられないスペシャル献立だった。
チキンソテーを作った夜は母はフライパンを洗わなかった。鳥の脂が残ったそのフライパンで翌日目玉焼きか炒飯を作った。鶏肉フレーバーの「スペシャル目玉焼き」「スペシャル炒飯」は美味しかった!二回もスペシャルが楽しめて超豪華気分だった。
そのチキンソテーを母は病院で毎日作ってくれた。ワタシも毎日食べても飽きなかった。
毎日朝からスペシャル!入院も悪くないぞ。
チキンソテーを食べてる間は、自分がガラス窓から同じ角度で空をずっと見つめていなければいけない、立って歩くこともできない、普通の子供なら体験しなくてもいい闘病生活を送っている子供だという事実から離脱することができた。
母は一口も自分では食べなかった。
一ヶ月半くらいそんな朝食が続いただろうか。
大きくなり、嗜好も変わり、チキンソテーよりもっと好きな食べ物とかもできて、それはもうスペシャルなものではなくなった。母もあまり作らなくなった。大人になり、ワタシは家で食事しなくなり、そのうちひとり暮らしを始めた。赤いお皿を持ってね。
ある日ひとりでチキンソテーを作ってみた。思ったより簡単なもんだな。うまく焼けた。赤いお皿にのっけた。でも一口食べた途端、入院生活のさまざまな想い出がうわーってよみがえってきて泣いてしまった。
それ以来チキンソテーは二度と作らなかった。お皿も捨てた。
再開したのはわりと最近だ。
鶏もも肉が冷蔵庫にあって、いつもなら照り焼きかトマトソースがけにするところだけど、なんだか、ふとチキンソテーを作ってみようかと思った。
初めて食べたコドモたちが「おいしい!」と、とても喜んだ。
「これスキ!また作って!」
ワタシも今回は食べても泣かなかった。
コドモたちが喜んでくれたうれしさの方が大きかった。病院生活の辛い思い出より母に対する感謝の記憶の方が強くなっていた。
もうお皿は赤じゃないけど、でも彩りはホントにきれい。
そしてもちろんフライパンは洗わないで、次の日の朝には「スペシャル目玉焼き」を作るの。これがまた楽しみなの!